西浦上東部(旧西浦上村)地区の歴史

和暦西暦事象
縄文時代縄文時代の遺構として、川平小学校から長与洗切を越える三ツ山町寄りに「犬継遺跡」がある
正暦5年994大村氏の祖、大村に土着
貞永元年1232長崎氏が大村氏に属す
嘉禎3年1237京都大番を勤めた御家人に「肥前国彼杵荘御家人」として長崎小太郎らと共に、浦上小太夫、同三郎の名が見える
正平18年
(南朝)
貞治2年
(北朝)
1363彼杵一揆(地域連合組織)の加盟者の中に、浦上沙弥浄賢、中野次郎太夫入道覚心、家野因幡権守公平の土豪の名が見える
文明6年1474大村氏が有馬氏に中岳合戦に敗れ、大村領の長崎、浦上、茂木方面は有馬領に(12月)
文明12年1480大村氏と有馬氏が和睦。浦上、茂木方面は有馬領となり、長崎村のみ長崎氏(大村氏重臣)支配となる
永禄6年1563大村純忠、日本最初のキリシタン大名に。
元亀2年1571ポルトガル船、はじめて長崎に入港
天正4年1576有馬義貞洗礼を受ける
天正8年1580ウィリニヤノ、大村純忠から長崎6町と茂木をイエズス会知行所に譲り受ける
天正12年1584有馬晴信、自領の浦上村をイエズス会に寄進。島津義久、長崎の町に進駐。天正15年まで長崎、浦上を占領。
天正15年1587秀吉バテレン追放令を発するとともに、イエズス会領の長崎、浦上、茂木を接収。(6月)
天正16年1588大村喜前、長崎、浦上、茂木の領地権を主張し、秀吉これを返す。大村氏は従来どおり、イエズス会に知行させる。(1月)
秀吉、改めて長崎、浦上、茂木の三領を没収。長崎旧教会知行地代官を任命。(4月)
慶長2年1597大村氏が仏教に改宗。この年26聖人殉教
慶長10年1605代官 村山東安、大村喜前と交渉し、大村領長崎村を公領となし、西浦上村を大村氏に返す。(7月)
寛永元年1624大村領内で、キリシタンが禁制される
寛永16年1639大村領、浦上・平宗・福田・式見・時津・三重以下の西彼半島にキリシタン改めについて、諸村の庄屋に誓詞を提出させる。(3月)
慶応3年1867「木場三番崩れ」が勃発。木場(三ツ山)のキリシタン信徒125人が大村の牢に投獄される。(7月)=木場教会殉教者顕彰之碑文=
明治5年1872戸籍法の施行で区設置。15大区、2小区浦上村西と称する。(2月)
明治6年1873平宗小学校および西小学校が発足。(現西浦上小学校の発祥)。(4月)
明治10年1877川平小学校創立。校舎11坪、34名、寺子屋式。(1月、現在の校舎の向かい)
明治17年188415大区2小区浦上村東西両部が併合して西浦上村と称する
明治18年1885木場郷犬継(現在の三ツ山教会が建っている所)に「木場教会」が再建される
明治20年頃1887獣疫が大流行して、西浦上村内東部の畜牛はほとんど全滅
明治22年1889市制が施行され、長崎区が長崎市に。また、西浦上村の町村制上の管轄が決定(4月)
明治25年1892川平尋常小学校と改称(6月)
明治25年〜26年頃村内に赤痢の大流行
明治27年1894長崎より伊木力に通じる川平里道が開通。
明治40年1907西浦上尋常高等小学校の新校舎が、現住吉住宅の地に完成した(3月)

p10〜

出典
西浦上東部地区長崎市編入記念誌・郷土のあゆみ
発行:西浦上東部地区自治会連合会
発行年月日:平成13年3月1日